「??よし」

 無機質な金属性の前で、一人の少女が小さく拳を握る。
 その頭には、一対の猫のそれに似た耳。両手で抱き締めるように持っているのは、ふかふかな白い枕。
 かわいらしいピンクのパジャマと、その上から羽織った皇国空軍のジャケットがアンバランスだ。
 服装、良し。シャワー、浴びてきた。コロン、とっておきの奴を少々。
 仕事、全て終えた。監視カメラ・盗聴器、周囲の物は既に殺してある。
 避妊具、必要なし。覚悟、どんとこい。

 深く息を吸い込んで心を落ち着け、彼女は青年の部屋の扉のロックをハッキングしてこじ開けた。


 その時彼は、自室のパソコンに向かって部下たちの訓練予定を立てていた。
 そんな時、唐突に室内に鳴り響く警告音。電子的にロックされている扉に対する、正面からの直接ハッキング。
 何重にも仕掛けられているはずのファイアウォールはあっさりと突破され、16桁のパスコードが次々と解読されていく。
 残り4桁となった時点で彼は電子的な抵抗を諦め、即座にパソコンの前を飛びのく。
 机の脇に立て掛けてあった愛用の軍刀を引っつかみ、走るというより飛ぶようにして、一歩でドアの前まで。
 ちょうどその時、パスコードの最後の1桁が解読され、軽い空気の圧搾音と共に扉が開いた。

「待たせたな??どうした? まさか、待ち切れずに眠ってしまったのか!?」
「……頼むから、普通にノックして入って来てくれ。ハッキングなんか仕掛けてくるから何かと思った」

 いつも通りの理知的な表情を崩さぬ彼女の姿に、思わず青年は脱力し、愛刀を抜いたまま床にへたり込む。
 そんな彼の姿と、非常警戒体制に入っている彼の部屋に視線をやり、こくりと彼女は頷いた。

「よしわかった。次は警報を鳴らさぬよう、ダミープログラムを走らせることにしよう」
「あー、もうそれでも良いや。とにかくおとなしく入って来てくれ。じゃないと、警備班が飛んでくるぞ」
「安心しろ。周辺の監視機器はすべて電子的に殺してある。今現在、君の部屋及びその周囲は完全に監視の死角だ」
「いやむしろそれはどうだろう。何かこう、軍事基地的に」

 青年が思わず立ち上がって突っ込みをいれると、途端に少女は不満げな顔。

「??どうした?」
「……そうじゃないだろう」

 ぽす、と軽い音を立てて彼女の持っていた枕が床に落ちた。

「私は、今夜を君と過ごしたくて、とてもとても頑張ったのだぞ?」
「え……ああ、わかってるさ。待ってたぜ。とにかくそんなところに立ってないで、早く中に入れよ」
「頑張ったんだ。とてもとても頑張ったんだぞ?」

 青年が言うが少女は動かず、上目使いに青年を見上げたまま、もう一度呟く。
 ふ、と溜め息をついて青年は苦笑し、愛刀をドア脇に置いて彼女に近寄り、

「ああ、わかってるよ」

 言葉と共に、彼女の小柄な体をお姫様抱っこで抱き上げる。

「あ??」

 流石にこの行為は予想外だったのか、少女は小さく呻いて黙ってしまう。
 頬を赤く染め、しかし青年の体に回した腕に精一杯の力を込め、

「重く??ないか?」
「平気平気。航空歩兵をなめるなよ」

 ゆっくりと、もどかしいほどゆっくりと。
 少女を抱えたまま、青年はベッドへと歩いて行く。

「どうしても、生身の骨や臓器と比べ、人工物は重くなってしまうからな。辛いだろう、本当は」
「だから平気だって」

 表情を見せず、胸元に顔を埋めるようにして呟く少女に、青年は優しく微笑んだ。

「ほら、ついたぜお姫様」

 その体を優しくベッドに座らせると、彼はドアの前まで歩いて行く。
 床に落ちていた枕を彼女に向かって放ってやり、ドア脇の刀を掴み上げ、今度は部屋の片隅の冷蔵庫の方へ。
 刀を脇に立て掛け、冷蔵庫を開いて振り返る。

「何か飲むか?」
「そうだな、ワインが欲しいところだが……無いよな?」
「残念ながら、航空歩兵にアルコールは厳禁だからな。生ジュースしか無いぜ。林檎にオレンジ、葡萄にトマト。どれがいい?」
「なら、トマトを」
「了解」

 できれば洒落たワイングラスでも欲しいところだが、彼の部屋にあるのは無骨で頑丈なセラミック製のマグカップのみだ。
 まず、彼女のマグカップにトマトジュースをなみなみと。そして自分の分のマグカップには林檎ジュース。
 青年が運んできたマグカップを、少女は両手で大切そうに受け取る。

「さて、何に乾杯するべきかな?」
「そうだな……。今日と言う日を無事に過ごせた事。そして、明日もまた今日と同じく、平和な一日である事を願って、と言うのはどうかな?」
「ああ、そうだな。じゃあ??平穏であった今日と言う日と、明日もまたそうである事を願って??乾杯」
「??乾杯」

 やや重い音と共に二つのマグカップが触れ合う。
 二人は互いに己のカップを傾け、だが少女がふと気になったように、

「君のそれは??どんな味だ?」
「どうって、普通だぜ」

 少女の質問に青年は悪戯めいた光を帯びた瞳で応え、ついでカップの中身を口に含むと、そっと少女に顔を寄せる。

「んっ……」

 唇と唇が重ねられ、少女の喉がこくりと鳴った。
 ぷは、と唇を離し、青年は言う。

「な、普通に甘いだろ」
「??ああ、普通に甘いな」

 再び己のカップを傾けながら彼は、

「酒保で売ってるような混ぜ物入りの奴じゃなくて、産地から直送の特別な生ジュースだからな。甘さも格別だろ」
「なるほど、特別なジュースだから甘いのか」
「ああ。特別だぜ」

 瞬く間に青年のカップが空となる。
 対する少女は「そうか、特別なのか……」と口の中で呟き、意を決して残ったジュースを口に含むと、今度は自分から青年に顔を寄せる。

 再び唇と唇が重なり合い、さらに舌と舌が絡み合う。
 唇が離れると、少女は青年の瞳を見つめながら、チェシャ猫のような笑みを浮かべ、

「どうだ、私のトマトジュースも、特別だろう?」

 そんな彼女の問いに、しかし青年は答えを返さない。
 代わりに空のマグカップを床に置くと、有無を言わさず三度彼女の唇を奪い、そのまま少女の体をベッドに押し倒す。
 彼女の手からカップが転げ落ち、床に弾んで鈍い音を立てた。


??だから、青年の部屋にはワイングラスが一つもなく、頑丈で無骨なマグカップだけが置いてあるのだ。

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