「お咎め無し?」
道場に早めに来ていた当馬憐は部活の顧問であり兄弟子である尺旦行灯に聞き返した。
「ああ。というかそもそも無かったことになったよ」
“無かったこと”とは守猶撫子に対する部活の指導である。
訓達は尺旦を通して剣道部顧問二口馬太の横暴を抗議させた結果がこれであった。
一つには当事者たる撫子自信が申し立てしていないと言うことがある。
撫子はその後部活には所属せずに自宅である道場に通っている。
IHには出れないが、それ以外の大会に出る分にはそれで問題はないというコトらしい。
(IHどころか魁星旗や玉竜旗にも出られないじゃないか……)
当馬は思わないでもない。魁星旗、玉竜旗というのはそれぞれ秋田、福岡で開催される地区予選の無いオープン参加制の大会であり
IHと並ぶ高校剣道の華形である。尤も団体戦であることを考えると一人だけ強くてもどうしよう無いといえる
(とは言っても守猶の実力なら一人で勝ち抜けそうなもんだ……)
勝ち抜き戦なのだから。そもそも自分達にも言えることだが、所詮団体戦など個人戦の集まりに過ぎないと思わないでもない
と、あくまで当馬は考える訳だが、そこに至ってどうやら撫子は本気で剣道家らしいと終着せざる得なかった。
(名誉には興味がない求道家タイプか……)
撫子が今回のコトを騒ぎ立てないのは彼らに屈したのではなく、意に返していないという風であったのは同じクラスの当馬も知っている。
「剣道部の部員も?」
「そんな事実は無いってね」
尺旦は首を竦めた。この場に一野進由羽が居たら、唾を吐いて彼らを締め上げに向かうだろう。
「まあ、たった一人の女の子に負けましたとは言えないさな」
「……監督に強制されましたとでも言えばいいだろうに」
自分達が上手く悪役から降りる方法ならそれが手っ取り早い……当馬の問いに尺旦は諦めたように笑った。
「あの人はああいう人だけど、それなりに人望もあるのさ」
「まさか」
「本当だとも。二口先生が来る前のウチの剣道部は弱小だったからね。十年は一回戦敗退が続いていたとか。
 勝っての古豪を今に甦らせたのは二口先生その人なんだよ。まぁ……それが逆に今一歩進めない
 二口先生の焦りになってああいう風な形で出てしまったんだろうけど……」
「へぇ、そんな熱心な先生だったのか」
「基本的には昔気質の生徒思いの人なんだよ。基本的にはだけど」
尺旦は苦笑いをしながら続けた。
「それに二口先生自身、自分の身と重ねる所があるんだろう、今の部の現状に」
「重ねる?」
「ああ。二口先生は兄さんと同級生だからよく聞かされたけど……」
「夢さんと?」
夢とは尺旦の兄である。今は家を継いで住職をやっている。
「二口先生は無冠の帝王って呼ばれた人だからね」
「帝王……」
似合わないななどと当馬は二口の顔を思い浮かべながら聞いた。ここで笑わないのは当馬の良心か。
「二口先生は高校時代は無名だったんだよ。三年間、県内でずっと立ちはだかった男が居たからね」
「………」
他人事ではない。当馬の頭に訓の顔が浮かぶ。

「でも大学は別でしょう」
「そう。だから二口先生は大学デビューってところかな。……でも、二口先生は大学でもいつも二番手だったのさ
 全国の広さって言うのをあの時は流石に感じたっていつだったか二口先生は言ってたよ
 知日慧(チヒ ケイ)……今度は彼が三度二口先生の前に立ちはだかったからね」
「三度?」
「知日慧は大学四年生の時全日本に出場したからね。そう、その時だけは大学選手権で二口先生は優勝旗を手にしたんだ。
 けれど周りは言ったもんさ。帝王不在の優勝ってね。それまでの三年間、二口先生の前で優勝旗を握っていたのは彼だったんだから」
「詳しいですね」
当馬も武道全般ある程度は詳しいつもりだったが、尺旦もそうなのかと単純に感心していた。
「いや……僕はその知日慧の弟をよく知ってるだけさ。」
「弟?」
「知日将って言えば、僕の世代の柔道の帝王さ」
そう言って尺旦は言葉を切った。
その男は去年、訓をスカウトしにきた男だった。もし当馬が、訓が、由羽が全国一になるならば、彼が率いる彼の教え子達を倒さなければならないのだ。
「「おねがいしますー!」」
道場の神前に向かって声を張り上げ入ってきたのは、その訓と由羽だった。




「それで今日は上級生と試合をしたんですか」
「うん、まあね」
満員電車の中で押しつぶされそうになりながら、守猶楼里は由羽の話の続きをせがんだ。
「勝ちました?負けました?」
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだい?俺が負けるわけねーだろ……って言いたいトコだけどね」
「負けたんですか?」
「いやいや、通算成績一勝零敗二引き分け」
「勝率なら十割ですね、凄いじゃないですか」
楼里は素直に感心するが、由羽と言えば勝率の出し方を知らないので何故そうなるのかと頭の上にクェッションマークを浮かべていた。
「聞かせて下さい」
「ん〜……あんまり格好いい話じゃないんだけどなー」
電車が揺れる中、由羽は楼里を庇いながら話した。



二、三年生対一年生と言ったものの、実際はレギュラー三人と由羽たち三人の三対三だった。
それも総当たりでも勝ち抜きでもなく、単純に三人三試合、お互いに相手全員とやる、正に「腕試し」と言ったところだ。
一人目の三年生・府久武 澄(フクブ チョウ)には三人とも危なげなく勝ち、周囲を感心させたのであった。
「へへ、楽勝楽勝」
「思ってても口にするもんじゃない」
訓は由羽を咎めながら、尺旦と残り二人の顔を見た。
(あの顔はこれからが真打ち登場って顔だな)
「当馬、残りの二人はどんな奴だ?」
「次に控えてるのは二年生の津田兼次(ツダ ケンジ)。派手さは無いが堅実な柔道をする。去年から団体戦のレギュラーを務めてる。
 格上の相手に上手に引き分けて県大会を勝ち進むキーパーソンになった選手だ。特に寝技には気をつけた方がいい」
「へぇ……団体戦は去年県ベスト4だっけ?」
由羽は屈伸する兼次を見た。坊主頭で精悍な顔立ちをしている。身体は年々大型化していく柔道界の中では小柄だ。
しかし力はある……とは当馬の弁。
(パワーファイターか、そこは訓と一緒だな……)
由羽は品定めをするように兼次を見た。
「その隣の……あの何回も髪を掻き揚げたり、白い歯を光らせたり、バラを胸に挿してる奴はなんだ?」
訓はあまり触れたくないように、当馬に訊ねた。
「あの人は三年の斯須藤 那留(シストウ ナル)ああみえて……ゴホン、あの人は去年の個人戦の県代表だ」
由羽と訓の顎が外れた。

「……そういう顔をするな」
あえては否定しないのか、当馬も穏やかにしか咎めなかった。
「乙古、それでもあの人がこの部活の選手の名かで唯一“全国”を知る人だってことは変わりない」
「…………」
「それに、一野進はよく見ておいた方がいい。闘い方が似ている」



「闘い方って?」
楼里が訊ねると、由羽は右手を差し出した。
「ワザのデパートってね」
由羽が指を弾くと、手のひらから小さな造花が飛び出した。
由羽が麗子と一緒にボランティアしてたときに、子供達に見せるために練習してたマジックである。
楼里は目を丸くして驚いた。声を挙げて喜ぶというのが楼里はどうも苦手だ。
それがこの場合、楼里にとってとても申し訳ないが、由羽は頓着していないようだった。



「くそっ」
兼次に何度技をかけても全て外されてしまう。
由羽は流石に苛立ってきた。先に彼と試合をした当馬も引き分けている。
(逃げてるだけじゃ……っ!)
つい、大振りになった由羽の動きを逃さず、兼次は由羽の懐に潜り込んでくる。
(危ねぇ!?)
一旦宙に浮くも、両脚で見事に着地する由羽。
「大したバランス感覚だね」
兼次からかけた技は全て無効化されていた。組技では由羽が一枚上手であることは認めざる終えない。
それでも由羽の仕掛ける技も全て逃げられてるのは事実だ。
「引き分け狙いかよ、先輩」
「そうだよ」
挑発するも、あっさり認められて由羽は調子が狂った。
「この試合の目的はね、君たちの伸びた鼻をへし折ることさ。だから僕の仕事は“負けない”こと」
「引き分けじゃインパクトが足りないんじゃねーの!?」
由羽は袖釣りを仕掛けるが、これも外される。
「ち…」
(難しい技を簡単にやる……!)
兼次は内心舌を巻いた。
(ただ、荒い。完成度が低いままでは一定レベル以上の相手には通用しない)
同時に試合終了の合図が聞こえた。
「引き分けでもいいさ、君たちに土を付けるのは次の那留先輩の仕事だ」
そして由羽の耳元で、兼次は自信ありげに言ったのだった。



「でも、由羽さんはその先輩とも引き分けたんでしょう?」
「まあね……なんていったら単なる見栄なんだよ。なんとも情け無い内容だったからな」
「?」
「なんとか引き分けってことさ」
楼里の頭にポンと手を置いた所で、電車は駅に着いた。
「あ……」
時間とは無情だ。これで由羽との会話もお終い。楼里は自然と溜息が溢れた。
「また明日な」
しかし由羽はそう言ってくれる。
一緒に電車に乗ることが当たり前のように。
「はい!」
楼里は自然と声が張り上がるのを感じた。

.
「でも訓はその先輩に勝ったんでしょう?」
夕日が差す河川沿いを訓は走っていた。隣で一流は自転車を漕いでいる。
「正確には優勢勝ち。それに当馬が負けて、由羽が引き分けるのをじっくり見てたからな。
 対策を考える時間があった。頭にやってたら負けていたさ」
「勝っても負けても怖い顔なんだ」
一流が顔を膨らませた。
「悪かったよ、遊んでやれなくて」
いつもは寄り道しながら二人で帰るのだが、訓は真っ直ぐ帰宅し、トレーニングを始めたのだった。
「いいよ、訓らしいし」
「じゃあそういう顔しないでくれ」
「理性と感情は別だもの」
一流が自転車のスピードを上げる。訓はそれに追いついた。
「嫌われちゃったな」
訓はこっそり呟いたが、一流は聞いてたらしい。
「いーえ、私は訓が大好きですぅ!」
「いちる、声大きい!!」
川で釣りをしていた人や、犬の散歩をしてた人、遊んでいた子供達が何事かと一斉に訓たちを見た。
「私は訓が大好きーー!」
「いちる!!」
絶対ワザとやってる……訓は思うのだが、だからと言って止める術はなく、兎に角やめてくれと顔を真っ赤にするしかないのだった。
一流が愛の告白を37回繰り返した後、満足したらしい一流に訓は尋ねた。
「で、ホントに柔道部のマネージャーやるのか?」
「駄目?私は訓とずっと一緒に居たいのに」
「いや、惜しいと思ってさ。バトミントンだっていちるは中学の時いいとこまでいったんだから……
 別にバトミントンじゃなくても、一流ぐらい運動神経があればドコの部活も引く手あまただと思うぞ」
訓は息継ぎをして続けた。
「いちるを必要としてる人が沢山いるのに、勿体ないと思ってさ、単純に」
「私はそんな有象無象より訓一人に必要として貰えばそれでいいんだけどね」
一流は自転車のカゴからスポーツドリンクを取ると、訓に渡した。
「でも本当に勿体ないです。体力測定の時見てましたが、砂奥さんの運動神経なら
 剣道をなされても一年もあれば良いところまでいけますよ」
「守猶……」
一流を挟んで訓に併走したのは守猶撫子だった。同じくランニング中らしく、白いジャージの上下を来ている。
「撫子は黒の方がいいと思うね」
「はい?」
「ジャージ。似合ってない」
「ちょ、いちる!?いきなり何を……!?」
訓は慌てた。だってそうだろう。いちると撫子は昨日今日の仲だ。それをそんなスッパリと……
「そうですか。成る程。留意します」
(普通に受けとめてるし……)
「うーん、基本的に撫子は和風って感じだからね。そのデザインがよくない。あと白でも材質がねポリエステルみたいなのは」
「そうですか。あまり気にしないもので……」
妙に淡々とした会話が訓の横で続いていた。
(気が合うのか……)
学校でも割とよく喋ってはいる。席が近いのもある。
(まあ、いちるも守猶も少しズレてるし……)
「下着は?」
「つけてます」
訓はコケた。

(何話してるんだーーー!!!)
「そうじゃなくて、どこの買ってるって話だね」
「ああ…」
合点が言ったと言うかのように撫子は頷いた。
「あれ?訓、遅いよ?」
自転車から振り向いた一流が訓に叫ぶ。
(誰のせいだ、誰の!)
慌てて距離を詰める訓を見、一流は更に続けた。
「そういえば、訓と一緒に下着を買おうと思ってるんだけど、中々一緒にきてくれないの」
「そうなのですか」
溜息をつく一流に、冷静に返す撫子。
「普通いかないだろー!!」
「普通いかないんですか?」
「お店の人はカップルで来る人も多いって言ってたね」
「人は人!ウチはウチーーー!!」
結局、一流に勝てない訓は取り敢えず叫んでみた。
「あ、訓、そこ段差になってるから」
「え?どわぁーーー!どっ!?!」
一寸、遅い。訓は河川沿いの土手を転げ落ちていった。
「エドワードってお知り合いですか?」
「誰?」





昼休みの売店は混む。
故に三時間目の内にパンを買っておくのが賢い。
由羽は定番のヤキソバパンを小脇に抱えながら、渡り廊下を歩いていた。
ちなみに、訓は愛妻弁当(誰のとは言うまでもない)、当馬も撫子も弁当組なので、由羽だけが購買のパン派だった。
「……と」
横目に映ったものを見て、由羽は足を止めた。
「我ながら、自分の目の良さが恨めしくなるときがあるわな」
数人が壁際で一人を囲んでいる。着装が義務づけられている組章を見ると囲んでる方は上級生、囲まれてる方は新入生だ。
(三年にもなって……三年だからか?)
落ちこぼれという奴かと思いながら、由羽は様子を見た。
新入生は財布からお金を出している。
(面倒ごとにゃ首突っ込みたくないなぁ……)
タダでさえ剣道部の上級生には目を付けられている。上級生の敵を更に増やしてしまっては学校を歩くのも大変そうだ。
かといって、見て見ぬフリをするのも目覚めが悪いとは思う。
が、現時点でお金を渡してるだけでは介入する理由にはならないだろうとも由羽は考えていた。
(殴られでもしたら止めにはいらざるおえないけどさ……)
今の時点では単に金を借りていたと言われれば納得せざるおえない。などと醒めて考えてる。
訓や一流なら見つけた時点で止めに入るだろうが。
(はやくチャイム鳴らないかなぁ……)
などと不謹慎なコトを考えていたら、一人がコッチに気づいたようだった。
「ありゃりゃ、火の粉が降りかかってきたよ」
何やら上級生が由羽に向かって叫いてるようだが、由羽は手の中のヤキソバパンをどうしようかと迷っていた。
しかし由羽の考えが纏まるより早く上級生の手が迫っていたので、仕方なく由羽は乱暴にポケットの中にパンを突っ込んだ。
「待って下さい!その人は関係ないでしょう!」
そこで声を挙げたのは囲まれていた方の新入生だった。

「お前がさぁ、ケチるからさぁ、いけないんだろぉ」
彼の前に立つ上級生が、奪った千円札二枚で彼の頬を叩きながら言う。
「なんで一万円と二千円がある状況で、二千円の方を渡すかなぁ?なぁ?」
「この一万円は僕には必要だからです」
ハッキリという新入生に、由羽は少し好感をもった。
「よし、ちょっぴり気に入った、お前。だからその二千円、取り返してやるよ」
自分の行動理由は万事コレだ……と由羽は自分に呆れながら指を鳴らした。
「お前達、何をしている!」
と、やる気になった由羽はその声で出鼻を挫かれたのだった。
「つくづく俺の邪魔をするじゃないか。教育委員会に親父がいる先生様はよ」
上級生を追い払った男を見上げて由羽は不敵に笑った。
「お前……一野進由羽」
彼ら見咎めたのは二口馬太だった。






一年生の教室が二階なのに対して、二年生は三階にあった。
1階にある購買に対してはどうしても出遅れてしまう。
なんとかあんパンとベーコンサンドを手にした津田兼次は人混みの中を抜けようとして、二つの物体に押し出された。
「うわ!?」
受け身を取れたのは日頃の練習の賜物だった。
「ゴメン〜」
「吾根脇さんか……」
とすると、ひょっとしてひょっとしなくても自分の頭を押し出したのは迩迂のたわわな果実だろう。
(役得なんだけど、そうと知ってれば踏ん張ったんだけどなぁ……)
などと考えているが、顔には一切ださない兼次である。
「あ〜いいな〜、ベーコンサンド!!」
「吾根脇さんは?」
「押し出されちゃった。もう一回頑張ってきます!」
敬礼してみせると再び迩迂は芋を洗うような混雑の中に消えていったのだった。
「津田兼次……」
「あ、那留先輩」
入れ違いに兼次に声をかけたのは斯須藤那留だった。何故か口にバラを銜えている。
そして銜えているのに普通に喋るという妙に器用な行動をしながら兼次に尋ねた。
「吾根脇迩迂はベーコンサンドを求めているのか?」
「はぁ……まぁ……」
「ベーコン……瞼を閉じればその鮮やかなる紅よポチョムキン」
何か口ずさみ始めた那留(理系)だが、兼次は慣れたもので平静に接する。
尤も、その言葉の意味など兼次にはわからない。わかりたくもない。
「吾根脇迩迂とベーコンとは実にアカデミックでスペクトルな取り合わせだとは思わないか、津田兼次!」
(何で先輩はいつもフルネームで呼ぶんだろう?)
「火だ……火は凶悪だ。全てを焼き払ってしまう……だが人はそんな火に美しさを感じてしまう」
「は、はぁ……」
脈略が無いことを(本人にしてみればあるんだろうが)オーバーアクションで
声のボリュームもJOJOに上がってきている那留に兼次は口を引きつらせるしかない。
「私は征こう。吾根脇迩迂にベーコンを届ける為に、一変の焔になろう!!」
髪をかき上げ、白い歯を光らせながら、何故かターンをして人混みに消えていく那留。




3分後
「私は時に白波のように、時に柳のように、時に……」
「ベーコンサンド買えたんですね」
長くなりそうだったので、兼次は機を制して確認した。
「私と吾根脇迩迂とベーコンサンドはたとへ宇治川が泥濘に溢れようとも、隔てられるものではない」
「宇治川なんて見たことないでしょ、那留先輩……いや、いいや。二つ買ったんですか?」
「無論だ。私と吾根脇迩迂の分。いや、しかし吾根脇迩迂がベーコンサンドを二斤望むならば
 私は喜んで差しだそう!彼女が望むならばさらなるベーコンサンドを探し出してみせよう!」
背中を90度曲げて絶叫する那留。
もはやこの奇人は学校中に知られているので、二、三年生は気にも留めずに去っていく。
とまどっているのは一年生だ。
「あの……吾根脇さんなら、友達と一緒に学食に行っちゃいましたよ?」
「なんだと……これは……運命が与えたもうた試練か」
片膝を付いて天を向き嘆く那留。
「頑張って…下さい……」
取りあえず無難なコメントを見つけた自分を兼次は褒めてやりたくなった。
「ところで先輩、新入部員の三人……どうです?」
それが聞きたいが為にわざわざ兼次は待っていたのだった。
那留は立ち上がると、瞳を閉じて、バラを手に持ち替えた。
「一番最初の……」
「当馬憐です」
「彼は大地だ。不毛な大地の一辺の切り株だった。やがて枝が伸び、葉が満ち、実を落とした。
 その落とした実は小さな、小さなリスの生きる糧となった。来年も又、木は実を落とすだろう……」
誰か翻訳してくれ……兼次は頭を抱えた。那留の事は柔道家としては尊敬しているが、人間としては
……その……同じ人種には思えないし、思われたくなかった。
「えっと……もう、いいd」
「二人目の、彼は……」
止まらないし。
「一野進由羽です」
「彼は空だ。しかし鮮やかな薄青の空ではない。どこか不安になるような、そんな深さを持った青だった。
 その空には大鷲のような屈強たる翼が似合うのだろう。だが、彼の空に飛んでいるのは百舌鳥だ。
 だが百舌鳥と侮ることなかれ。百舌鳥はその小さな身体の中に獰猛な獣性を顰めているのだ」
さっきより長いし。
兼次はあんパンを食べながら聞いていた。出来れば逃げたい。
「そして最後の……」
「乙古訓です」
「ああ、彼は海だ。正しくはかって海だった。取り残された湖なのだ。故にその深さを知るものは誰も居らず
 しかし、その水の中に沢山の生命を囲い、生かし、世代を重ねてきた。優しく哀しい父の腕なのだ。
 この海は雨を望むだろうか。大地を削り、多くの内に秘めた命を削りながらも、再び海と繋がる雨を。
 解放とは常に犠牲を払うもの。しかし海に帰ることこそ己が縛ってしまった命への……」
——キーンコーンカーンコーン
「チャイム鳴りましたよ、先輩」
「そうか、時間とは無情だな。だが吾根脇迩迂もまた、この同じ刹那を生きている。その幸福に私は感謝しよう」
デス○ノートのポテチを食べるライ○ト並みにベーコンサンドを食べる那留。
「じゃあ自分はこれで……あ、そうそう、あの三人、団体で全国狙ってるそうですよ」
「ほう。それもいいだろう。私と津田兼次にあの三人を加えれば、松島に天立橋を加えるようなものだ」
それはかえって景観を損ねてるのではないだろうか。
「……だが個人戦は別だ」
「…………」
瞼を半分閉じた那留に兼次は思わず一歩下がった。
感じる肌寒さは人が少なくなったからではない。

「どんな轟々とした大地であろうと、どんな流々とした空だろうと、どんな深々とした海だろうと……」
那留はバラを空に掲げた。
「宇宙(ソラ)に浮かぶ月には届かない」
兼次は息を飲んだ。別に那留の言葉に感銘を受けたわけではない。
彼はこの男が闘う前に見せる危うい、刀のような切れ味が好きだった。
この男がいるから、兼次は黒子役に徹していられるのだった。
確かに一野進由羽や乙古訓は那留に引き分け、勝ちはしたが、それは寝起きの獅子を襲うようなもので
牙を研ぎ、爪を研いで伏せる獅子に正面から立ち向かったものではないのだ。
(今年は面白くなりそうだ……)
兼次はやはり、外からは判らない平然とした顔でそんなコトを思っていた。





「アイツどこへ消えたーーーーーー!!」
放課後、叫んでいるのは訓である。
「一野進のカバン、ないぞ」
当馬は由羽の机を見て話した。ちなみに机の中には教科書が一杯である。
「由羽さんなら、お腹が痛いので帰ると仰っていましたが」
撫子の言葉を待たず、訓は声を上げた。
「嘘だ……由羽が病気してる姿なんて見たこと無い!」
「馬鹿は風邪ひかないって言うしね」
一流の言葉に相づちを打つ訓。
由羽を馬鹿に出来るほど親しくない撫子はどういう顔をしていいかわからなかった。
「まあいいじゃないか。練習をせずに弱くなるのは勝手だ」
「……だからって昔からアイツは気分屋すぎるんだ。普通、このタイミングでサボるか?」
兼次や那留と闘い、改めて高校柔道を肌で感じた後である。男なら燃えに燃えるタイミングである
……と、まあ訓は言いたいのであろう。熱血というよりは真面目な男だからであるが。
「昔からこうなら、いい加減慣れればいいのにと思うんだけどね」
一流の言葉に頷かざる得ない当馬と撫子であった。



「そういう風に認めたらズルズルとだなぁ……」
道場に向かう途中、四人は未だに訓を宥めていた。関係ない撫子などは端から見ればいい迷惑である。
「まあまあ、ジュースでも飲んで落ち着け」
と当馬は訓に缶を手渡した。
「っておしるこじゃないか!!」
暖かい缶にツッコむ訓。
「おいしいだろう!」
「おいしいけど!!」
真顔で言う当馬に否定しない訓。
「これから運動する人が飲むものじゃないよね……」
一流の言うことはもっともである。
「だが、缶で飲むおしるこなど邪道だ!いちるの作ったおしるこに比べれば…ッ!!」
力みすぎたのか、訓の握っていた缶が潰れた。
「あ……」
当然、中身の入っている訳だから、圧迫された中の空気が中身を押し出してしまう。
運悪く、あたたか〜いあんこは空中で弧を描き、撫子に直撃したのだった。
「…………」
髪の毛からお汁粉が滴る撫子。
「訓、正座」
「はい……」
一流に怒られた訓は空気の抜けた風船のように萎んでしまった。
「どういう握力をしているんだ、乙古……」
中身が入ったスチール缶を潰す訓の握力——80�




「80!?」
「うん、80�」
柔道部は良い成績を残してることもあってか、道場にシャワー室が付いていた。
ので、状況を説明し、撫子はシャワー室を借りたのだった。
不幸中の幸いというべきか、スカートにはおしるこがかからなかったので、取りあえず一流は
ブラウスを洗うと干した。上の甘い香りが漂う制服は訓をしてクリーニング屋に走らせたのであった。
「筋力は嘘付かないって訓が言ってたね。でもつけすぎると成長の妨げになるから選んで、鍛えてるんだね」
撫子は濡れた長い髪を丹念にタオルで拭きながら聞いていた。
「訓はね、由羽くんが羨ましいんだよ。いつも言ってるんだ。由羽くんの方が才能が上だって
 自分が一つの技を覚える間に、由羽くんは三つ覚えちゃうんだってね。だから自分は三倍時間をかける
 でも三倍時間をかけて由羽くんと同じ事をするんじゃなくて、三倍時間をかけて一つの技を極めるんだって」
撫子から見て、訓の話をする一流はひどく楽しそうだった。


「……聞こえてるんだけど」
「良かったな、この場に一野進が居なくて」
柔軟をしながら、訓は耳まで赤くしていた。
「実際センスあるよね、彼」
「津田先輩……」
聞いていたのか、隣にいた兼次は二人に話しかけた。
一つ年上だが、偉ぶった所はなく、今のところ一番気が許せる先輩だと訓たちには感じられた。
「組み手の立ち会いもそうだけど、それよりもボクはあのバランス感覚と柔軟性に驚いたな」
「確かに。一野進は試合でも滅多に一本取られなかったからな」
「…………」
訓は無言で肯定した。それは五年間一緒にいる訓が一番よく知っていた。
由羽はその運動神経とバランス感覚で空中で投げられた状態ですら身体を捻って向きを変えられた。
故に一本になるものを技あり、有効に留め、ある時にはそのまま二本の足で立った時すらあった。
そして身体が柔軟だから疲れにくく、関節技や寝技からも逃れやすい。それは天性の資質だった。
(でも……だからこそ俺は……)
訓は拳を作る。
(由羽からも一本を取れる背負いを求めたんだ……)

「それでね、訓が制御効かなくなると全力で握る訳だから、胸に痣が出来ちゃって……」

シャワー室から聞こえてくる声。
柔道部員達の動きが一時停止。
間。
「いちるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?!何話してるのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?!いちるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?!」
血の涙を流し、シャワー室に駆け込もうとする訓を必死に抑える当馬。
「落ち着け!あそこにはまだ守猶が……!!」

「それでね、私が涙目になってるのを見て、訓は慌てて手を離すんだけど、その後優しく赤くなった部分を舐めて……」

「死なせろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!もう死なせてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
「落ち着け乙古ぉぉぉぉぉぉ!!羨ましいぞコノ野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
帯を自らの首に巻き始める訓、それを手伝う当馬。
「しっかり気を保って二人とも!?」
止めに入る兼次。
「…………」
事態に頭が追いつかない他の部員達。

.
「でも泣いてるいちるも可愛いから、また力を入れたくなっちゃうよ……なんて訓が言ってね……」

「うわあぁあぁあぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁ!!!絶望した!素直すぎる彼女に絶望した!!!」
「あやまれ!俺が流した精子の数だけあやまれ!!乙古ォォォォォォォォォォォ!!!!」
声がキャプテ○ンガンダ○ムになり、首が180度回転し始める訓と、血の涙を流す当馬。
「どうしよう?!これどうしよう!?」
もはや手に負えない兼次。
「Sだ……ドSだ……」
取りあえず訓の評価が決まったらしい部員達。
混沌とし始める道場。
「ふ……混沌とは荘子にでてくる言葉……つまり、男と女とは一炊の夢。されど一度目を閉じれば……」
何故か上半身裸に成りながら語り始める那留。





放課後の駐輪場、掃除に時間を取られたからか、人のピークは過ぎている。
「どいてください」
自転車のハンドルを握った。サドルに跨りペダルを漕いで振り切るまで五秒といった所か。
その五秒の間に自分を囲んでいる上級生に袋叩きにされてしまうだろう。
「………」
どうしようか。
いや、どうにもならない。
本来の目的は果たせないだろう。そしてたった一人で勝つことも無理だろう。
ならせめて一人ぐらいは道連れにするべきだろうか……?
「へへっ…」
腕を鳴らして上級生が一歩踏み出したときだった。
「ぐえ!?」
横から猛スピードで走ってきた自転車が、その上級生を牽き飛ばしたのだった。
「おーい、危ないぜー!」
……牽いた後に言うセリフだろうか?
「お、お前、昼間の——」
一野進由羽……。
「ホラ、逃げるぜ?」
その男は、俺に向かってそう声をかけた。



「ありがとうございます……って言った方がいいんですかね?」
「さぁな」
自動販売機でジュースを買って水分補給をする一野進由羽は悪童のように笑った。
「どうして一野進さんは……」
「ん?なんで俺の名前知ってるんだ?」
「あはは……俺も柔道部でしたから。中学の時は。一野進さんとやったときもあるんですよ」
「マジか。わりぃ覚えてねぇや」
一野進由羽は両手を合わせて謝った。
「いえ、弱小でしたから、ウチは」
同い年だけど、俺にとって一野進由羽は遠い人だった。
「名前は?」
「え?」
「アンタの名前。それから……一緒に柔道やろうぜ?意外と骨がありそうだ」
「……鷹賀一歩(タカガ イッポ)です」

.
「——ふぅん、妹への誕生日プレゼントねぇ」
「両親が離婚しちゃって中々会えないんですよ。だから誕生日ぐらいは奮発しようと思って……」
アクセサリーショップの中を見渡しながら、俺は答えた。
「俺は一人っ子だからわからねーな」
「歳が離れてるから可愛いんですよ」
「兄妹ってのは知り合いに居ないわけじゃないがね。まぁその兄貴は勘当されちまって
 俺も見なくなって久しいんだが……今頃何やってんだろうな、“あの”人」
しかし男二人でこの手の店ってのは中々目立つ。まあ俺には縁のない店ではあるが。
「ん?」
一歩はもう決めたらしく、手に包装された小箱を持っていた。
「家に?」
「——はいけないんですよ。アッチにはアッチの新しい家族がいるから。だから小学校の前で」
「それって不審者っぽくね?」
「あはは……参ったな。でも歩美は俺が来ることはわかってますから」
一歩の笑った顔を見て、俺は何となく兄弟ってのは悪くないと思った。




「楼里ちゃんって最近いっつも残ってるよね?」
「え…」
夕暮れの教室で本を読んでいた私に、同級生の去渡歩美(サレド アユミ)さんが声をかけてきた。
「歩美さんこそ、今日はどうして遅くまで学校にいるんですか?」
「うん、今日はお兄ちゃんが迎えに来てくれるから!」
「そうですか」
わからなくもありません。私もお姉ちゃんが迎えに来てくれたらやっぱり嬉しいですし。
「…………」
「なんですか?」
ジッと見られるのはあまり好きではないのですが。
「話逸らしたでしょ?」
「………確かに」
意図はしなかったですが。
教室の時計を見ると、まあ後20分といった所でしょうか。
由羽さんは部活がありますから、私が学校が終わった時間に電車に乗っても逢うことは出来ないのです。
「ね?どうして?」
尚も私が教室に残る理由を歩美さんは訊ねます。
「……一言で言うなら、逢瀬の為です」
「オウセ?」
歩美ちゃんは首を捻っています。当然です。私はあえて難しく答えたのですから。
もちろん、有耶無耶にするためです。
私は自分の色恋の話を話すのは余り好きではありませんし、それにいくら何でも高校生の由羽さんに
本気で恋をしてるなんて、現実味が無さ過ぎて話せる内容ではないのですから。
(そうですよね……やっぱり、由羽さんにはお姉ちゃんぐらいの人がお似合いですよね……)
自分で考えてて憂鬱です。
「あ、お兄ちゃん!」
歩美さんは窓の外にお兄さんを見つけると慌ててカバンを持って教室の外に出ていきました。
……と、一旦戻ってきて
「じゃあね、楼里ちゃん!」
「はい、さようなら」
うん。歩美さんのああいう所、私は好きです。

.
「よし、今日はコレまで!」
尺旦先生の声に大きく息を吐いた。
「ふぅ……っ!」
……斯須藤センパイ……髪を掻き上げるのは結構ですが、汗が俺の顔に飛んできてるんですけど?
「なんだい?乙古訓?……ああそうか、気にすることはない」
なんでさ。
「私の美しさにキミが嫉妬する必要はない。キミにはキミの良さがある」
「ゴメン、こういう人だから決して悪気はないんだ」
素早く間に入ったのは津田先輩だった。
「はぁ…」
俺は怒るよりむしろ呆れてしまったので、気にせずに整列した。
……確かに変わった人だが強い。今日は結局一本も取れなかった。
上背があるが、細身の身体だ。だというのにドコにそんな筋肉があると言うのか、強引な力業も
度々決まってしまうのだ。身長に比例して手足が長いのも厄介だった。
「礼!」
その斯須藤センパイの声で部活の時間が終わる。
俺は練習で少しぶつけた肩を冷やそうと思い、立ち上がった。
救急箱の中にコールドスプレーがあった筈だ。
「訓ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
んなぁっ!?
肩に突進してきたのは迩迂先輩だった。
「やっぱり柔道部なんだね〜訓ちゃん!!」
頬ずりしてくる迩迂先輩。いや、それはいいが、その巨大な胸に圧迫されて……く、苦しい……
「わた…わた…わた…わた…私の…の…く、訓…訓に………うっ!?」
いちる!?
俺が迩迂先輩の胸の隙間越しに見たのは、守猶(服が乾くまで見学していた)の手刀で気を失ういちるの姿だった。
「……な、何故か本能が危険だと!」
狼狽えながら弁明する守猶。
「いや正しい」
何が正しいんだ!当馬!!よくも俺のいちるにぃ!!
迩迂先輩をどけて、俺はいちるの元へ!!
「ぐぇ!?」
……行けなかった。
足を思いっきり捕まれたからだ。
「ふ…ふふ…ふ……真珠湾攻撃をされた気分だよ、乙古訓!!」
「何するんですか、斯須藤センパイ!!」
犯人はこのイマイチ掴めないセンパイだった。
だが、周囲は何故か斯須藤センパイを応援していた。
「やれ!やってしまえ!!男の敵だ!!」
「あの可愛い子だけじゃなく、巨乳もだなんて……!!」
「なんであんな男に……ッ!!」
「Sか!Sがいいのかーー!!」
え……なんだ、この雰囲気は……?
「ちょっと、なんなんですか、津田先輩!」
取りあえず一番話の分かる先輩に助けを求めた。が、しかし
「……乙古くん、ボクは君は不誠実だと思う」
「ふ…不誠実……」
そ、そんな……お、俺は今まで正直に生きてきた筈だ……ふ、不誠実……
「みんな、どうして訓ちゃんを虐めるの!!」
迩迂先輩が俺を庇うように抱きしめる。
「氏ね、乙古氏ね!」
「美乳と巨乳が……もはや我々には貧乳しか残されてないというのか!」
「何故だ!天は何故にあの男に二物を与えたもうた!!」
「誘いSか!誘いSなのかーー!!」
なんかさっきよりヒートアップしてる……何故だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
「ええい、静かにしなさい!!稽古が終わった後とはいえ、度を過ぎて五月蠅いのはよくないですよ!」
「……………」
温厚な尺旦先生が、ついに怒声を挙げた。それで場は水を打ったように静かになったのだった。
「というか、どうして道場に来たんですか?迩迂先輩」

「それは彼女がウチのマネージャーをすることになったからだよ」
尺旦先生のその一言に道場が揺れた。歓喜的な意味で。
「……迩迂先輩、バレー部でしょ?」
それもバレーの実績をかわれて推薦でこの高校に入ったのだ。バレー部を止めるのは色々問題がありそうだが。
「うん…………手首を……やっちゃってね」
「先輩…」
いつも太陽のように明るい先輩が、無理に笑った姿を俺は初めて見た。
「なんで教えてくれなかったんですか!」
俺はそれが辛くて、つい勢い込んで迩迂先輩に訪ねた。勢い、覆い被さるよう形になっていた。
「え……だって、訓ちゃんは受験生だったし……」
「去年……あの時の怪我ですか!?」
去年の秋ころ、確か迩迂先輩は腕を痛めていて、病院に連れて行ったことがある。
「もしかしてあの後無理したんじゃないでしょうね?」
迩迂先輩ならやりかねない……
「ち、違うよ……で、でも……あれから怪我しやすくなっちゃって、手首……」
確かに、一度怪我をするとクセになると言うことは聞いたことがある。
「それで、二月に……手術してね、前みたいに上手くスナップがきかないんだ。だから……もうバレーは無理かなって」
「………っ!」
「柔道部、訓ちゃんや由羽くんや憐ちゃんもいると思ったし……私、やっぱり汗の匂い好きなんだ」
ならバレー部のマネージャーをやればいいじゃないか……とは言えなかった。
迩迂先輩が運動が、バレーが本当に好きなのは知っている。だから、バレーを見てるのは辛いのだと
……俺に手首を握られて涙目になっている迩迂先輩を見れば、そんな事は充分に伝わった。
「訓……」
「ん?いちる、目を覚まし……え?」
「ねえ、どうして訓が吾根脇先輩の手を握って、顔をそんなに近づけて、押し倒そうとしてるの?
 吾根脇先輩の目に涙が浮かんでるのは何故?ねぇ……訓……」
ちょ……誤解……
だ、誰か……
「……(シーン)……」
なんでココはこんなにもアウェイなんだ!?
「あの……砂奥さん、それは誤解……」
守猶!
「どうして私で満足してくれないのーーーーー!!」
守猶の話を聞く前にいちるは走り去ってしまった……
というかポイントはソッチなのか?
「……って、追いかけなきゃ!!」
俺は慌てて靴を履いて、道場の外に出た。
遠目に校門を自転車に乗って走り去っていくいちるの姿が見えた。
いちるのすることは徹底している。
……って、関心してる場合じゃない。俺も自転車に乗って…ッ!

——自転車借りるわ by 由羽

俺の自転車が置いたあった場所には、由羽の汚い字で書かれたメモが貼られてあった。





ああ、次の駅だ。次の駅で由羽さんに会える。
そう思うと私の心は春の風に揺れる土筆のように健やかになります。
電車が揺れて、身体が引っ張られるような感覚の後、空気が抜ける音と一緒に電車のドアが開きます。
「………」
駅では部活帰りの一高の人たちが次々と乗ってきます。
「………」
由羽さんは何時もこの車両に一番最初に乗ってくるのです。
「………」
今日は遅いな……
「………」
アレ?

——プシュー
無情にも鉄の扉は閉じてしまいました。
私は背伸びをしながら辺りを見渡します。
ひょっとして別の車両に……
「あら、楼里ではないですか」
「お姉ちゃん!?」
いえ、確かにお姉ちゃんはこの学校の生徒ですが、この時間に電車に乗るのは……
「妹さん?」
!!
「お、男の人……」
……どこかで見たことがあるような?
「どうしてこの電車に?」
「え……?!え、ええっと……絵を描きにいってたので……」
嘘ではありません。由羽さんと会ったときもその為に電車に乗っていたのです。
「妹の楼里です。絵が上手で、コンクールなどでも何度か入選してるんのですよ」
「へえ。凄いな」
電車がカーブに差し掛かり、車体が大きく揺れました。
いつもなら踏ん張るところですが、動揺していた私は忘れ、よろけてしまいました。
「きゃ…?」
ですが、私は倒れることも、他人にぶつかることもなく……お姉ちゃんと一緒にいた男の人の腕の中にすっぽりと収まっていたのでした。
「大丈夫?」
とても力強く、でも乱暴でない。引き寄せた男の人のは誠実そうに笑いました。
「降りる駅は?……そうか、俺の方が先だな」
私を人の壁からさりげなく守るように立った男の人はお姉ちゃんと二言三言話してたようでした。
その間、私は男の人をチェックします。
学年章を見るにお姉ちゃんと同い年、顔は……悪くないです。身だしなみもしっかりしています。
背も高校一年生にしては高い方ではないでしょうか?性格は……悪い人が私を助けてくれないでしょう。
(困りました……第一印象で悪いところが見つかりません……)
不味い……非情に不味いです。これは残念ながらお姉ちゃんとお似合いと言わざる得ないのではないでしょうか。
し、しかしお姉ちゃんをそこら辺の十把一絡げの男に任せるわけには…ッ!!
「楼里ちゃん?」
「は!?はい、なんでしょう?」
「楼里、乙古さんが聞いたのは二度目ですよ?」
「いや、人多いから聞こえないって事もあるさ」
ああ、そんな優しい言葉を言わないでください!!
「ああ、楼里ちゃんはどんな絵を描くのかなって」
「風景画が得意ですけど……」
「そっか。人物画だったらモデルにして貰おうと思ったんだけどな。まあ俺みたいなのじゃ創作意欲が湧かないか」
朗らかに笑う乙古さんに、私は慌てて否定しました。
「そ、そんなことありません」
由羽さんとは好対照な人……私はボンヤリとそんな風に乙古さんを思いました。
「ん?じゃあ、俺はこれで。また明日な」
駅で電車が止まると雪崩うつように人が出ていきます。その流れから私を庇った後、最後に乙古さんは電車から降りました。
電車が動き出し、手を振った乙古さんが見えなくなった後、お姉ちゃんは私に声をかけました。
「楼里、少し変でしたよ?」
「そ、そうですか……?」
お姉ちゃんは私の目を覗き込むと、口に手を当てて笑い
「乙古さんの事をお気に召したのですか?」
なんて言いました。
「まあ、確かに……」
否定は出来ません。
「そうですか」
するとお姉ちゃんは楽しそうに笑いました。
こ、これはやはりお姉ちゃんも乙古さんに好意を持っているということでしょうか!?
ああ……わ、私は一体どうすれば……!!

.
そもそもだ。いちるが一方的に誤解したんであって、俺が謝る必要も追いかける必要もないじゃないか!!
「…………」
で、なんで俺はいちるの家の前にいるんだろうか?
「つくづく弱いよなぁ……」
インターホンを押しながら、一人ぼやいた。
『はい』
いちるのお母さんの声だ。
「あ、訓ですけど。いちる居ますか?」
『…………まあ、取りあえずあがってくださいな』
なんだ、今の沈黙は?
格式ばった日本家屋の門を抜けていちるの家に入る。
「お邪魔します」
「久しぶりね、訓ちゃん」
いちるに似た美人の品の良いいちるのお母さん(ウチのとは大違い)が玄関で迎えてくれた。
「いちるは?」
「……お腹壊して寝てるわ」
「はい?」
「牛乳パック四本も抱えて帰ってきてね……家にあった二本と合わせて合計六本を
 全部飲みほして……何を考えてるのかしらね、あの子は?」
……俺のせいか?
「じゃあ、いちるとは話せないですか?」
「当然でしょう。あの子が訓ちゃんにそんなみっともない姿を見せるわけないじゃない。あられもない姿なら兎も角」
最後の言葉は何だ?俺の聞き間違えか?
「では、出直して……」
「せっかく来たんだから、夕飯でもどう?」
「いえ、そんな……」
「あ、もしもし粲さん?ええ……訓ちゃんはウチで……はい……また今度……」
家に電話してるし……。
(強引なトコはいちるに似てるよなぁ……いや、いちるが似たのか)
居間に案内される。しかしいつきても大きな部屋だ。
「やあ、訓くんじゃないか」
「いちるのお父さん」
「座りなさい」
促されるままに、席に着く。
「…………」
彼女の父親というのは、これほど気まずい相手も居ないだろう……
昔は普通に話していたものだが、さて、こういう関係になると何を話したらいいのか。
ちなみに俺といちるが付き合っているこのは承諾済みである。
「まったく、せっかく訓くんが来てくれたのに、一流はしょうもない子だ」
いや、逆なんですけどね。
「しかし高校に入って二人が付き合うと聞いて、私は実に安心したものだよ。一流め、こんなにいい男
 を何時までも放っておいて他に取られたらどうするんだと私は常々思っていたからねぇ……」
いや、逆なんですけどね。
「母さん、訓くんに私の秘蔵のワインを……」
「まだ高校生ですから!」
上機嫌のいちるのお父さんを身振りを交えて押しとどめる。
「むぅ……訓くんはその真面目な所が唯一の欠点だなぁ。じゃあ代わりにブドウジュースで」
言われたとおりにいちるのお母さんが、いちるのお父さんにはワインを、俺にはジュースを用意する。
「僕を褒め殺すつもりですか?」
「私は本当の事を言ってるだけなんだがなあ。」
むぅ……ここまで好かれるのも、また何というか難しい……
というか、俺の事をココまで信じられてるのは、なんというか……逆に心苦しいというか
いちるのお父さんがいちるをどれだけ可愛がってるかは子供の頃から見てきた訳だし
その珠のように可愛がってる娘を、俺は……その……ねぇ……抱いている訳だし。
(うわ……なんて罪悪感……)
「ところで、訓くん」
「はい?」
「別にするときはウチでしていっって構わないのだよ?」
「ぶほっ!?」

飲んでいたジュースを吹き出しそうになり、堪えた。
しかし鼻から逆流している。
「す、するって……なんの話ですか?」
鼻から流れたブドウジュースをティッシュで拭いながら、なるべく平静を保ち俺は訪ねた。
「もちろん子作りを」
「ブッ!!」
俺は思わず椅子から滑り落ちた。
「ナ、ナンノコトカワタシニハサッパリ…………」
……いや、嘘はよくないか。
俺は姿勢を正すと、いちるのお父さんを正面から見てハッキリと答えた。
「決して俺は遊んでいるつもりでいちるを抱いている訳では……!!」
「うん、それは一流から話を聞いていれば判るよ」
…………その話の内容が恐い。
「私もね、自分の鎖骨に付けられたキスマークを喜々として語るのは少し慎みがないとも思うんだがね」
少しではないと思います。
「そういう所は母さんに似たなぁ」
「何言ってるんですか、アナタ」
ぶっちゃけたーーーーーーーー!!!
「まあアレと一緒にいると、その手の気苦労は絶えないだろう。それは察するところではある」
しみじみと思い出すように語るいちるのお父さん。
何?この妙な連帯感は……
「あの子なりの愛情表現なんだ、受け止めてやってくれないかな」
「受け止めるも何も……俺はいちるの全てを愛してますから」
うん。これは嘘偽りない俺の本心だ。だからスラスラ言える。
「まあ、訓ちゃんってば若い頃のアナタと同じ事言ってるわ」
「ははは……」
……よく考えたらコレは結構恥ずかしいこと言ってるような?
んんん?
俺が考えてると、空になったグラスにいちるのお父さんがワインをつぎ足した。
「あ、どうもすみません」
こういうのはお酌を俺が注がないと……とは思いつつ、緊張で唇が乾いてるので、グイッと飲み干す。
「……アレ?」
って、お酒じゃないか!!
「いちるのお父さん!!」
「そんな余所余所しい言い方しなくてもいいんだよ、お義父さんと呼んでくれれば!!」
ウチの母親がいちるに言うのと同じ事を言うし……
俺は少し頭を抱えた。幸いというか、俺はそこまでお酒には弱くないらしい。
「って、また注いでるし!?」
「いいじゃない、今夜は泊まっていきなさい。そしてはやく孫の顔を見せて頂戴ね?」
いちるのお母さんまで何を言ってるんですかーーーーーー!!
「訓、来てたの……?」
「あ、いち…」
「う……!」
…るは慌ててトイレに駆け込んでいった。
「まあ、妊娠かしら?」
いや、言ったジャン、一番最初に会った時にお腹壊したって言ったジャン!!



「失敗したわ。訓が来るとわかっていたなら私が台所に立ったのに……」
ソファーに横になりながら、いちるは呻いた。
「いつも弁当貰ってるじゃないか?」
「できたてを食べて欲しかったの」
……アレ?何か忘れてるような?
そもそも俺は今日、こんな風にいちるの家で食事をするために来たわけじゃ……
「そうだ!いちる、あのな、迩迂先輩とは……」
「ああ、大丈夫。どうせ私の勘違いだね?」
「え…うん、そうだけど……」
はれ?毒気を抜かれた気分だ。

「ゴメンね、訓。でも正直言うと、私あの人少し苦手なんだ。ううん、人間としては好きなんだけど
 その……私には無いものを持ってるのが、時々恐くなってね」
「いやいや……いちるがあんな風に手間のかかる人だと大変だ」
フラフラしていて、俺とどっちが年上か判らない迩迂先輩の事を思い浮かべる。
「訓ってさ……いいや、なんでもない」
「なんだよ?」
「ううん、私は訓の全部が好きってこと」
「な、何言ってるんだよ…ッ!」
俺はいちるを直視出来ずに、食事に戻った。
「おかわり、いる?」
気づけば茶碗の中は空だった。
やっぱり部活をしていると食欲が違うなぁ……
さて、おかわりを戴いていいものか。この状況だと断るのはかえって失礼かも知れない。
「それじゃあ……」
「ちょっと待って!お母さん、それは兄さんの茶碗じゃない!」
え?
「ええ、そうだけど。お父さんが使えっていうから」
いちるのお兄さん……隷而(レイジ)さんの?
「いいじゃないか、訓くんには砂奥の家を継いで貰うんだから。あんな男なぞ……」
「「お父さん!」」
いちるといちるのお母さんが同時に声を上げる。
隷而さんは……奔放な人で何時もいちるのお父さんと喧嘩していた。でも俺達にはいい兄さんだった。
それに俺が柔道を始めたのだって、隷而さんが道場に通っていたからだ。でもついには家出したまま、いちるのお父さんも
隷而さんの事は勘当したと言っている。そうだ、今でも覚えている。隷而さんの出ていった日
いちるは泣いていた。俺も泣きたかったけど、俺はあの時決めたんだ。いちるが泣いてる時は俺は支えてやらなきゃって。
「勝手な事言わないで!大体……」
いちるは俺の側に寄ると、俺を抱きしめながら
「訓だって長男なんだから。私は普通にお嫁にいきます!」
「ちょ……いちるぅ!?」
アレ?隷而さんの話じゃなかったのか!?
「だ、駄目だ!一流が嫁にいったら砂奥の家はどうなるんだ!訓くんは婿に絶対貰うからな!!」
色々飛躍しすぎだーーーーーーー!!!





「どうしたー寝不足かー?」
翌日、グッタリした訓に声をかけたのは由羽だった。
「いや……結婚って大変だよなぁって……」
「何?ついに一流ちゃんと籍入れるの?」
「なんで俺、あんなに気に入られてるんだろうなぁ……」
割と年長者受けしそうな性格をしているからである。さらに言えば、才気溢れる一流によって
過剰に装飾された言葉で訓の行動が伝えられていたこともあるといえばある。
「って、由羽、昨日サボったな!!」
「おお!?まあそういうなって、新入部員ゲットしたからよ!」
「そういう問題じゃないだろ!」
「ぎょええ!?間接決めるな、間接ーーー!!」
バンバンと机を叩き、“参った”を繰り返す由羽。
「クスクス……おはようございます」
教室に入って、訓と由羽のじゃれ合いを目の当たりにした撫子は笑いながら挨拶をした。
もう大分、この馬鹿騒ぎにも慣れてきたようだった。
「お、おう!おはよう!」
「守猶、昨日悪かったな」
「いえ、ちゃんと洗って貰いましたし」
もちろんクリーニング代は訓持ちである。
「ん?なんの事?」
「昨日サボってた奴には教えん。と言うか、今日はちゃんと自転車持ってきただろうな?」
「う、ウィッス……」
「そうそう、お陰で今朝は訓と別々だったんだから!」

「おはよう、砂奥さん」
今朝は電車で登校した訓。一流は自転車であった。
「うん、その砂奥さんって余所余所しいから止めない?私のことも一流って呼び捨てにしていいからね」
「え……?」
「はいはーい!じゃあ撫子ちゃんだからナデナデとかどーだー?」
「由羽……お前ってセンスないよな……」




「お出かけですか?」
翌週の日曜日、私は楼里に玄関で呼び止められました。
「ええ、友人と」
「……今日は暑いですよ。長袖はどうでしょう?」
「大丈夫ですよ」
私は笑って靴を履きました。
「………」
本当は暑いのは苦手です。寒いのは大丈夫ですけど。
でも、私の腕は筋肉が付きすぎていて女の子らしくないのです。
それは二刀を扱う為。後悔はしてません。だけど、やっぱり、さらけ出すには少し勇気がいります。
特に砂奥……いえ、一流さんが一緒だと、躊躇わずには居られません。



「あ、撫子ちゃん」
駅前につくと先に来ていた由羽さんが私に手を振ってきました。
白いTシャツの下に七分袖の黒いTシャツを重ね着した由羽さんの格好は春というよりは夏を感じさせるものでした。
「「おはよう」」
「おはようございます」
寄り添って居た乙古さんと一流さんも続いて私を認めます。
ああ、私は結局「撫子ちゃん」になりました。
……ナデナデも悪くないと思ったんですが。
「お揃いですか?」
私は二人が着込んでいる薄地のセーターを指して訪ねました。
乙古さんはジャケットの下に、一流さんはシャツの下に着ているので
少し判りづらいですが(さらに言えば一流さんはポンチョを羽織っているので)
「うん」
嬉しそうに肯定する横で、乙古さんはボソっと「妥協点……」と呟いていました。
「ああは言ってるけど、訓の奴はアレ貰った時は一日中顔緩みっぱなしだったんだぜ」
乙古さんに聞こえないように由羽さんがこっそり説明します。
さもありなん。
「手作りですか?」
「わかる?」
逆に一目では分からない程の完成度でしたが。
「編み物出来るんですか?一流さんは」
「うん、まあ趣味程度だけど」
「俺の部屋の箪笥、二段ほどいちるの手作りで埋まってるけどな」
「訓、それノロケって自覚してるのか……?」
由羽さんの言葉に顔を真っ赤にして否定した訓さんは、歩きながら続けます。
「ち、違う!ええっとだな……いちるは子供の頃から手袋とか俺に呉れてて……」
「撫子ちゃん、俺、砂吐きそう。いや砂糖吐きそう……」
「昔の作品はちょっとね……私も未熟だったんだんだよね。だから解して作り直そうと
 思うんだけど訓は返してくれないよね?もう小さいから取っておく必要も無いと思うんだけど」
「ふふ、きっと一流さんに貰ったということが大事なんでしょう」
なんて私が言ったら、乙古さんは耳まで真っ赤にしていました。
「撫子ちゃんは編み物とかは…?」
「私は刺繍は出来ますけど……編み物はやったことがないですね」
「いや、ソッチの方がスゲーじゃん」
半身を逸らして見せて大げさに仰け反る由羽さんに、思わず私は笑ってしまいました。
ああ、最近の私は本当によく笑っているような気がします。

「今度教えて貰えますか?」
「いいよ」
「ハイハイハイハーーイ!プレゼントフォーミィー!!」
由羽さんが身体を伸ばしながら手を挙げました。
「由羽、いちるから貰ったこともあったろう」
「訓の毛糸の余りで出来たのとか、試作品とかをねぇぇ!!」
「では妹にあげるのの試作品でよろしければ」
「撫子ちゃーーん!?」
頭を抱える由羽さん。……本当に涙を浮かべてますし。



繁華街裏のアパレルショップを一通り回った後、デパートで買い物をさらにする一流ちゃんと撫子ちゃんに
流石に疲れた俺と訓は買い物を楽しむ二人とは別にベンチに座って休んでいた。
「女の子ってさ……」
「お前はこういうの苦手だったな」
「まあ、俺は買いたいものはスパッと買っちまうタイプだからな。訓は……結構悩むよな」
一緒に一流ちゃんと買い物していて苦にならないらしい。
尤も、そのお株は今撫子ちゃんに取られてしまっている訳だが。
「来週は釜瀬(カマセ)工業との練習試合だな」
「そんなに強くないだろう、あそこは。県内じゃ釜瀬商業と南高、文大(フミダイ)付属とウチで四強ってトコか」
俺は地下の食品売り場でかったたこ焼きを頬張った。
「地区大会の次は県大会。県北じゃまず匡業(キョウゴウ)学院、箕朔(キサク)林業、県南では太興(タイコウ)北高……」
「当馬の受け売りか?」
「まーなぁ」
たこ焼きのマヨネーズを掬い塗ってから口に頬張る。酸味の効いた味が広がった。
「訓は中量級と軽中量級、どっちにでるんだ」
俺は軽中量級なだけに訓がコッチに降りてくるのは勘弁なのだが。
しかし、訓にしてみれば少し絞るだけで軽中量級の制限をクリアできるのだからソッチの方が有利か。
格闘技って奴は須く体重が重く、体格が良い方が有利ではある。
柔道は重量級・軽重量級・中量級・軽中量級・軽量級の五段階。
「中量級だ」
「しんどいぜ?」
“柔よく剛を制す”とはよく言うが、現実では中々お目にかかれない言葉である。
確かに訓は体格には恵まれてるし、筋肉もある。しかしあくまで高校一年ではという範囲でだ。
「……当馬はどうするんだろうなぁ?」
アイツは訓よりは背が低いが、その分いかつい体つきをしてるので、体重で言えば大差ない。
訓と同じく絞り込めば軽中量級に滑り込める所にいる。
「兼次先輩は軽中量級だろ?あとアノ那留先輩は中量…」
「待て、斯須藤先輩は中量級なのか?確かに細身だが、あの上背を考えれば軽重量級じゃないのか?」
「さぁ?でも尺旦先生が言ってたしな」
「…………」
沈黙する訓。だが多分、コイツは階級を変えることはしないだろう。
「訓!由羽くん!」
「ん〜、ようやく終わったみたいだぜ」
買い物袋を片手に俺達を呼ぶ一流ちゃんに俺達は立ち上がった。
「じゃ、次はボーリングだっけ?勝負しようぜ、訓。ビリはポテト奢りな」
「そういう賭けをする時に限っていちるが一番を持って行くんだが……」
そういう訓の予想は半分当たったり。
その日のハイスコアは撫子ちゃんが持って行ったのでした。ちなみに二番が一流ちゃん、俺達並んでビリっけつ。



「男のメンツって奴がさぁ……」
ボーリングの後、ファミレスで軽い食事をし、訓と一流と別れた撫子は由羽のぼやきを聞いていた。
「ところで、由羽さんも同じ方向なんじゃないですか?」
「ん?そりゃね、でも気遣いぐらいはするさ。これからは恋人達の時間だから」
「ああ、仲がよいですよね、あの二人」
「そういうレベルじゃない気がするけど……あはは、撫子ちゃんも少し変わってるよ」
由羽は八重歯を覗かせながら笑った。自然と釣られて笑ってしまう、そんな笑顔だ。

青紫の空に一番星が輝いている。
「……剣道部はいいの?」
「構いません。何も高校でしか出来ないわけではありませんから」
言い切った撫子に、由羽はフッと淋しそうな顔を見せた。
それはほんの一瞬だったが、しかし撫子はそれを認めてしまった。
「剣道、ずっと続けるつもりなんだ」
「はい、そうですけど?家が道場ですから、小さい頃からずっとです」
「…………」
由羽は少し考えた後、空を見上げながら呟いた。
「訓や当馬もそうなのかなぁ……」
「え?」
「俺は“あたりまえ”じゃなくて“なんとなく”柔道続けてるからさ。いや、正確に言ゃ……訓がいるから続けてるんだな」
「いい事じゃないですか。親友なんでしょう?」
撫子はまだ、男の友情とはそんなものかと単純に考えている。
「ひたむきさが羨ましいって事はあるんだけどな……」
それは小さな声だった。
「ん?変なこと言っちまったな」
「由羽さんは……大きかったり、小さかったりしますね」
「何のこと?」
「私を助けてくれた時の由羽さんは大きい背中をしてました。けど今は子供みたい」
撫子はふと、泣いている楼里の姿を思い浮かべた。
「俺は昔っから小せえ悪ガキさ。時々大物ぶってるだけだけ」
手の平を振る由羽に、しかし撫子は冷たい。
「じゃあ、あの由羽さんは偽物だったんですか?」
「…………むっかしいなぁ。物事には勢いってのがあるからさ。まあ、俺って基本的には
 行き当たりばったり、勢いで動いてるから小さかったり大きかったりってのは的を得てるかな?」
「はぐらかしてるように聞こえます」
「……かも知れない。でも、まだ撫子ちゃんとはそこまで深い仲じゃないしな。そこまで深くは言えない訳さ」
由羽は言って後悔した。彼は撫子に好意を持っていた。しかしこのように突き放して嫌われない訳がない。
それでも……由羽は時折後先考えずに人を傷つけてしまう、そしてそれが心地よくもある暗い衝動があった。
(誰も傷つけずに生きられなんてするもんかよ……どうせ)
大きく息を吐いて、由羽は早足になり、撫子の横を通り過ぎた。気まずくもある。
「私には由羽さんが何を隠して、何を悩んでいるのかは判りません」
(そうだろうな……撫子ちゃんも所詮、俺とは反対側の人間だ)
後ろから聞こえる声は温かくも冷たくも無い。ただ事実を言っているだけ、そんな声音だった。
「ただ…持っている人の近くにいれば、手に入ると思ってるんですか?」
由羽は思わず足を止めた。
「…………」
「…………」
「すみません。よくも知らない由羽さんに、偉そうな事を言いました」
撫子は、その名前の花の如く、慎ましやかに笑った。
尤も、その顔は由羽は見ていない。でもそうだろうと由羽は思った。
「昔、同じ事を言われたのを思い出した。ただ……あの人の言葉には続きがあったけど」
「由羽さん?」
「撫子ちゃん……力貸してくれないかな?」
その背中は大きくも小さくもない、不思議な背中だった。


   
   ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※   



尺旦はIH予選のパンフレットを見ながら、顎をさすった。
「あ、パンフレット出来たんですか?」
道場に来ていて柔軟をしていた部員の中で迩迂と兼次が目敏く見つけ尺旦に駆け寄る。
「見せて、見せて〜」
迩迂は尺旦からパンフレットを受け取るとページをめくった。
「訓ちゃんたちはデビュー戦だねぇ……」
「ふむ、彼らもようやく高校柔道家のような面構えになってきたね」

「まあもう三ヶ月めですからね。まあ今年の地区予選はあの三人が注目株で間違いないでしょう
 ボクも、負けてられませんけどね。先輩としての意地もありますし。特に由羽くんとは同じ軽中量級だから……
 そういえば、彼、最近肉付きがよくなってましたけど体重制限大丈夫だったんですか?」
「んん〜ねえ、軽中量級には由羽くんの名前無いよ〜?」
見間違えじゃないかと兼次はパンフレットを覗き込むが、確かに名前がない。
「軽中量級じゃない?」
訓、一流、由羽と供に道場に入ってきた当馬は聞いていたのか、声を上げた。
「由羽、ここ最近、練習終わった後の付き合いが悪いのは減量に忙しかったからだと思ってたんだが」
訓が眉間に皺を寄せながら由羽に向かって訪ねた。
「お陰様で私は訓と濃厚な時間を過ごせたけどね」
「いや、いちる、今真剣なところだから……」
訓が額を抑えた。周りはもう慣れたもので騒ぎ立てもしない。
「逆だよ、訓。肉付けたんだ。脂肪だけじゃないぜ、もちろん。なんとかギリギリ72�で中量級に乗っかれた」
「由羽……」
「知っていたんですか?」
兼次の問いに、尺旦は口止めされてた事を話す。
「…………」
「…………」
訓と由羽はその日、無言だった。





「んほ……ん…ちゅ……ちゅぽ……」
一流の部屋でコンポが洋楽を奏でている。なんの曲かは知らない。
「……ん……ちゅる…ちゅるる……」
慣れとは恐ろしいもので、訓は一流の部屋でセックスをすることも抵抗が無くなっていた。
この一つ屋根の下で、一流の両親は今頃テレビでも見ているのだろう。
同じ時、今、まさに、その愛娘を跪かせて、己の男根を咥えさせている背徳感……
訓は鳥肌が立ってくるのすら感じた。
まぁ、音楽をかけてカモフラージュするぐらいは臆病だったりするのだが。
「ねえ、訓……」
息継ぎをかねてか、一流は訓の男根から口を離すと訪ねた。唇から糸が曳いている。
「大丈夫?」
「なんの事だ?今日はまだ一回目だろ?」
「ん……こっちの事じゃなくて……」
訓の剛直を一流は優しく撫でながら、続けた。
「由羽くんのこと」
「……こういう時にいちるから他の男の名前が出ること自体、不愉快だな」
「もう…」
訓は一流の華奢な身体を抱えると、ベットに押し倒した。
「なんでそんなに心配そうな顔をする?俺が負けるとでも思ってるのか?」
「意外……由羽くんを誰よりも認めてるのは訓じゃな…あん!」
一流が言い終わるより早く、訓は一流の乳房に吸い付いた。
「俺には俺だけの勝利の女神様が付いてるからさ」
洋楽のテンポが変わる。サビに向けてアップテンポになったようだ。
訓は一流の形のよい乳房の間に顔を埋めた。
耳を澄ませると一流の心音が聞こえてくる。
「はぁ……」
訓は一流の滑らかな肌に密着し、呼吸を繰り返している。
自分の匂いが吸われてゆく……それだけで一流はピリピリと静電気のような淡くむず痒い快楽を感じる。
「それに……」
「それに?」
「いつか……俺もアイツと同じ事をしたと思う」
琥珀色の瞳に映る自分を身ながら、訓は続けた。
「例え…全県だろうと…全国だろうと……アイツ以上の敵はいない気がするんだ」
一流の乳房を優しく摘み上げ、離し、掬い上げながら撫でて、訓は一流の耳を咬んだ。
洋楽はいつの間にかサビを終え、間奏に入っている。
「だから俺は一柔道家として……いや、一人の男として本気のアイツと闘ってみたい」

「男の子って……わからないなぁ……」
そっと吹きかけられる息に擽ったそうにしながら、一流は笑った。
半分諦めが入っている。
「私は訓の全部を私の中に囲いたいけど……私の中に収まっちゃうような訓は訓じゃない……かな」
訓の手が乳房から滑るように降り、波打つ下腹部に添えられる。
「それでも俺はいちるの全てを汲み尽くしたいと思うけどな」
「ん……せつなくなってるよ、訓……」
「ああ……混ざり合おうか」
ベットが軋む。
曲はいつの間にか終わり、再び繰り返していた。



ここ二ヶ月の日課である右腕の10�ダンベルを終えると、由羽はシャツで額の汗を拭った。
人気のない公園で、黒いジャージに身を包んだ撫子が二本の小太刀用の竹刀を手に取る。
由羽は右手に軍手をはめると撫子に向かって言った。
「じゃ、頼むわ」
撫子は頷くと二本の竹刀を不規則に由羽に向かって突き立てた。
「く…っ」
迫り来る竹刀を軍手をはめた右手だけで払う。
——左肩
——胸
——腰
——右肩
——喉
「ッ!?」
容赦無い。望んだのは由羽だが、流石に冷や汗をかく。
それでも、この死線の上にある緊張感……それも又、自分に足りないもの。
「ざぁっ!」
由羽は叫ぶ。
訓の手に捕まれてはまず逃げられない。ならば払うしかない。
(鍛えろ…)
撫子のカウントが始まる。
カウント0と同時に竹刀を掴むのだ。
(この後はあのクソ不味いプロテインだ)
摩擦で手の平が熱い。
「…2…1…0!」
「ッ!!」
撫子の手が止まる。腕を引こうと思っても、がっちりと掴まれ動かない。
相当鍛えてるつもりでもやはり男の筋肉には適わないのは、少し辛いと撫子は思う。
(それにしても……大した反射神経です。天稟のものですね……)
「ひゃ〜おっかなかったぁ〜〜……」
「こんな付け焼き刃で勝てるでしょうか?」
「おいおい、それは言ってくれないでよ……」
勝てるかも知れない……撫子は思う。訓が部活の練習の後も自己トレーニングを欠かさないのは一流から聞いている。
彼は頭がいい。それを支える一流もだ。だからちゃんと科学的な根拠に基づいたトレーニングを行っている。
それに比べれば今、由羽がしているのは階段を一段、二段飛びで駆け上がるようなものだ。
奇策……といってもいい。
それでも……兎が本気を出したら亀を追い抜いてしまうことは充分有り得るのだ。
それに……と撫子は考える。
「もうワンセットいきますよ」
「うぃーっす…」
「由羽さん」
「ん?」
「負けないでくださいね。私がついてるんですから。私、一流さんには負けたくありません」
由羽はキョトンと目を開いた。
「それってどういう意味?」
「一流さんが訓さんのコーチなら、私は由羽さんのコーチのつもりですから」
「ああ……こりゃ負けられないな」
由羽はクックック……と腹の中で笑った。

.
疲れて寝ているいちるにキスをして、ベットから出た。
時間は夜の十一時。
「すっかりいちるの家に泊まるのが馴染んでいる……」
部屋に俺の枕があるし。
ジャージも置いてあるし。
頭を抱えながら、それを着込む。
足と手にアンクルを巻いて、タオルを首にかける。
握力バネをポケットに入れて、俺はいちるの部屋のドアに手をかけた。
持久力は……いや持久力に限らないが、常に日頃の積み重ねによってのみ付くものだ。
柔道に限らず格闘技は全身運動である。その消耗は激しい。体力はあればあるだけいい。
(よし…)
窓から見えるのは満点の夜空だった。
「訓…?」
「いちる?起こしてしまったか?」
「ランニング?」
目を擦りながら訪ねてくるいちるに俺は頷いた。
「………帰ってくる?」
とは、ランニングが終わったらそのまま自分の家に帰るのか、それともいちるの家に戻ってくるのかということだ
「ん〜…」
正直、走りながら決めようと思っていたので考えてなかった。
「フレンチトーストと冷たいミルク作っておくからね」
戻ってこいということらしい。
「一時間ぐらい走ってくる。楽しみにしてるけど、お父さんとお母さんを起こさないようにな」
「大丈夫、寝室と台所遠いから」
……そうだった。相変わらず広い家だ。
「…………」
「何?」
「キス」
「さっきしたよ」
少し拗ねたいちるの顔が月明かりに照らされて可愛かった。
(うん)
俺は充足した気持ちで外に出た。夏を前にして夜も蒸し暑さが増しているようだった。




——私立体育館
今日はIH地区予選の日です。
由羽さんの応援に私も駆けつけました。
「……人が多いです」
さらに言うと高校生の大きな波のせいで前が見えません。
あれから残念な事に由羽さんの自転車は直ってしまった為に、もう電車では会えなくなりましたが……
しかし、この守猶楼里!転んでもただでは起きません!
由羽さんのメアドはしっかりゲットしました!!!
遠くから見ているだけだった頃に比べれば、一歩も二歩も前進しています。
私は観客席から試合場を見下ろしました(観客席は二階・三階)
開会式で学校ごとに並んでいるのでようやく由羽さんの居場所が分かりそうです。
「……あれ?あの由羽さんの前に居る人は……」
見間違えようがありません、あの人は乙古さんです!?
「……同じ柔道部だったんですか」
道理で由羽さんと少し似ているはず……かどうかは判りませんが、
しかしあの様な人と一緒なら、由羽さんはかなり好ましい環境で柔道をしているという事なのでしょう。
しかしそれならそれで、(由羽さんと試合が被らない限りは)乙古さんの応援もしたいところです。
私はパンフレットを開きました。

一方の開会式が終わった会場では
「ヤッホー!応援にきたよ、乙古くん、由羽くん!ついでに当馬も!」
「千紗!」
「一応同じ学校だったのに、ついでは非道くないか……」
一流の友人である伴田千紗が駆けつけていた。
「あ〜千紗ちゃんだ〜」
「迩迂さん、柔道部のマネージャーになったんだって?」
……とまあ、三人寄れば姦しいと、一通り話した後で
「でも乙古くんと由羽くんが同じ階級とはね、波乱だねぇ〜」
「全くだ。俺はアイツらと決着を付けようと思っていたのに」
当馬が腕組みをするのを千紗は笑う。
「じゃあライバルがいないからには、当馬は優勝してみせなさいよ」
「う…」
言葉に詰まる当馬。何だかんだと言ってもまだ一年である。それほど自信があるわけではないのだ。
それに当馬のいる軽中量級が最も人数が多い混戦地帯である。
それでも厳しいとは言わないのは、当馬のプライドの高さ故だが。
「任せておいてよ!!」
「なんて吾根脇先輩が請け負うんだ!?」
と、この馬鹿騒ぎに訓は兎も角、由羽が関わってないのに千紗は不審に思った。
「…………」
「…………」
それどころか、千紗が見たところ訓と由羽は話もしていない。
「ちょっと……なんかあったの?あれ」
指さす千紗に、しかし一流は笑って答えた。
「大丈夫よ、あの二人はあれでも親友なんだから」





「別に迎えに来なくてもよかったのに……」
車の後部座席に座りながら、私は運転している茂部に言った。
「そうは言っても、もう開会式は始まってますぜ」
「大丈夫よ。決勝に間に合えばあの二人は見れるんだから」
車の外を流れる風景を見る。
久しぶりの故郷は変わったようにも見えるし、変わってないようにも見えた。
窓を開けて思いっきり空気を吸い込みたいとも思ったが、せっかくセットした髪が乱れるのも嫌なので止めた。
「さあ、それなんですがね、お嬢」
茂部は麗子にパンフレットを渡した。
私は素直に受け取る。多分、あの二人は軽中量級か中量級だろう。
「決勝戦になったら、お嬢はどっちを応援するんですかい?」
「は?」

.
聞けば同じ学校の選手はなるべく別のブロックになるように調整されてるらしいです。
「乙古さんと闘うなら決勝ですね」
「おうさ。それまでは、なんとか“アレ”を隠し通せるといいけどな」
自信ありげに笑う由羽さんに、私も微笑み返しました。
「ここ二、三ヶ月、付き合わせて悪かったな、撫子ちゃん」
「その成果を見せてくださいね」
「おうさ!」
由羽さんは腕を回しました。試合は第一試合目……縁起がいいと由羽さんは笑っていたのを覚えています。
「…………」
その由羽さんの前に乙古さんが立ちます。
「決勝で待ってるぞ、由羽」
「俺以外の奴に負けるんじゃないぜ、訓」
二人は短く言葉を交わし、由羽さんは試合場へ一歩を踏み出しました。
「ふふん……困るな、一野進由羽、乙古訓」
いつの間に居たのでしょうか……確かこの人は、柔道部の主将の……
「斯須藤先輩……順当にいけば」
彼を見止めた乙古さんが、立ち止まり、
「準決勝で俺と当たりますね」
「私は……今年の中量級無敗で表彰台に上がるつもりだよ」
そうか……由羽さんが、乙古さんの他にもう一人強敵と認めていた人……
「決勝戦の舞台にはキミまだ早い。いかな大輪の花でも蕾のまま生ける訳にはいかないのさ」
「悪いですが、先約があるんです。決勝戦には俺が行かせて貰います」
瞬間、会場がワッと湧きました。
どうやら由羽さんが一本勝ちをしたようでした。




<了>
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