あれから幾度目かの後朝。乱れた衣服と整えている彼女が話し出した。
『浩輔。』
―何でしょう?
『1つお願いがある。』
―何か買って欲しいんだ、なんてのは勘弁してくださいよ。
『なに、君に金銭面での負担はかからない。むしろ1食分食費が浮くぞ。』
―なんですか?
背筋に走る悪寒を感じながら聞き返す。

『君を我が家の夕食に招待したい。父や母からの招待だ。』

―……それは蹴り飛ばして逃げるわけには?
『当然不可、だ。そんなことをしてみろ、君にとっても、私にとって悲しい結果になる。』
―……分かりました。で、どのような服装をして何時ごろいけばいいでしょうか?タキシード着て正装していきましょうか?
『我が家をなんだと思ってるんだ。極々普通の日本の家庭だぞ。』
―年収が多すぎて幾らか分からないような家庭は日本国内にそうそうありません。

彼女の家は日本有数の大金持ちらしい。なんでも本人曰く、『息をしているだけで生活に必要な金額は向こうから飛び込んでくる。』のだとか。
その上、某社の取締役としてあちこち飛び回っているというんだから……
バイト代が5万円に乗るや乗らずやで一喜一憂している、小市民街道まっしぐらな一学生にそもそもつりあう相手じゃない。
そこへきて向こうのテリトリーにご招待だ。緊張しないはずが無い。

『念のために言っておくが、娘さんを僕に下さい、みたいなことはする必要は無いからな。私としてはしてくれても全く構わないが……』
―構わないが……何ですか?
『父がな、少し子離れが出来ていない人なんだよ。』
……覚悟して行こう。

〜数時間後、彼女の家にて〜

「あら浩輔ちゃんいらっしゃい。小学生のとき以来かしら?」
―お邪魔します。そうですね、もう10年近く家の中にはお邪魔してませんね。
玄関で将来の義母に迎えられ居間へ通された。

彼女が自分の横に座るように目で合図してくる。
―これは何ですか?
座布団の上に座り込みながら小声で質問する。
『これは我が家の食卓だな。』
俺の目の前に広がるのは1人分のスペースが卓袱台くらいある、冗談のように大きな机だった。その上には所狭しと大皿に料理が並んでいる。
―ひい、ふう、みい……
『何をしているんだ?』
―いや、こんなに食卓におかずが並んでるのを初めて見たんで……
『品数だけで言えば、我が家ではこれが普通だぞ。内容は君が来ると聞いて少し気合を入れたんだがな。』
―これで<少し>ですか……
分厚いステーキや世界三大珍味が並んでるんじゃないか、なんて冗談で考えていたが、その予想が悉く当たっていた。
少しだけ気合を入れただけで世界三大珍味を網羅するなんてどんな家庭ですか。

彼女の親父さんがなかなか帰ってこない。大事な仕事があって帰れないかもしれない、と事前に伝えてあったらしいので連絡を取る。
まだ帰れないそうだ。先にいただくことにする。
『父がいなくてよかったな。』
―全くです。
「子供のころに遊びに来ていたときも、ウチのお父さん、苦手にしていたでしょう?」
―ああ、ばれてましたか。
『当然だ。父がいるときは君は遊びに来なかったし、もし遊んでいる最中に父が帰ってきたら、逃げるように帰ってしまっていたじゃないか。』

ムスッとしている人を俺はどうやら受け付けないらしい。それを気付かせてくれたのが彼女の親父さんだ。
幼稚園に通っていた頃からここには遊びに来ていたが、彼女の親父さんはいつも俺のことを渋い顔をして見ていた。うるさくて、うっとうしかったのだろう。
そんな空気を感じて俺は次第にこの家に寄り付かなくなっていった。そんなふうにして俺と彼女とは疎遠になっていったのだ。

食べ過ぎた。気持ち悪い。お喋りに花が咲いて満腹に気が付かなかった。
『そろそろ帰るかい?』
―でもおじさんに挨拶していかないと……
「いない人に気を遣う必要は無いわよ。」
『それに苦手なものに敢えて対峙する必要も無い。』
―……それじゃ、お言葉に甘えさせていただきます。
これでは敵前逃亡のようだが親切には甘えるべきだ。素直に、ごちそうさまでした、と挨拶しつつ玄関に向かう。

長い廊下の後ろからバタバタと足音が近づいて来たと思うと、背中に柔らかみを感じた。
『今日も君の家へ行くよ。』
―これからすぐにですか?
『いや、明日の朝食の材料を買わないと。ただ、スーパーの閉店時間まであまり間が無いから、すぐに出ないといけないな。』
―荷物持ち、しましょうか?
『お願いしようかな。この機会に少し重い物も買っておこう。お米に味噌、醤油……』
―くっ……じゃ、じゃあテクテク歩いて行きましょうか。
『ああ。』

玄関まで来て、さあ行こうという時に、彼女は財布を忘れたらしい。先に行っていてくれ、と一言置いて自室へ戻っていった。
外から玄関を見つめながら、白い息を吐きながら待つ。そして彼女の、将来の自分の父親に思いを馳せる。
いつかはきちんと向かい合わなくてはいけない。しかもその時は恐らく……
―娘さんを下さい、だよなあ。
「許さん。」
突然背後から声がした。
口から飛び出した心臓を体内に押し込んで、ゆっくり振り返る。
最も会いたくない人が、そこにいた。

『すまない、待たせた。行こうか。』
玄関の引き戸をガラリと開け、彼女が顔を出した。自分の部屋までの少しの距離を急いで駆けていったのか、僅かに息が弾んでいる。
自分の娘を見つけた父親は厳しい顔を崩し、まるで俺がその場に存在しないかのように振舞った。
「ただいま。」
『おかえりなさい。じゃあ行ってきます。』
「駄目だ。」
『何故ですか?』
「どうせこの男のところへ行こうというのだろう?」
ああよかった、とりあえず俺がこの場にいることは認められているようだ。
『何か問題がありますか?』
「お前は私の娘だ。娘を守るのが親の責務だ。馬の骨に嫁にやるわけにはいかん。」
うわあ、“馬の骨のような奴”じゃなくて“馬の骨”ですか。
『何故いきなり結婚の話になるのか分からないのですが。』
「この男は私に向かって<娘さんを下さい>とぬかしおったのだ。」
誰が向かって言ったよ。

『そんなことを言ったのか?』
彼女がこちらに向き直って、俺に質問をぶつけてきた。
……顔が熱い。
―……そんなこと言ってないです。
「私にははっきり聞こえたんだが?まさかそんな中途半端な気持ちで呟いた言葉なのか?」
顔が近いよお父さん。いや本当に近いから。
―いやあれはなんというか……予行演習というか……
小さな声で答える。前髪どうしが触れ合うほどの至近距離だから聞こえているはずだ。
「本人を目の前に予行演習か。自分の伴侶にしようという相手に敬語を使うような間柄でか?」
馬鹿にするような口調だが、地獄の底から響いてくるような低音で聞いてきた。
いやだからあんたがいること知らなかったんですって。
黙っていると、彼はやがて大きく息を吐き出した。

「いつかは来るとは思っていたが……」
いかつい表情を俺に向けながら言葉を続ける。
「大事な娘を手放さなくてはならないとはな。」
語尾が震えている。眉間によった皺が一度ほどけて、もう一度きつく結ばれる。先程とは眉の角度が違う。潤んだ瞳が一瞬見えたのは気のせいか。
俺に背を向けて娘の前に立ち、そうして恐らくは娘以外には見せたことの無いような顔をして、言った。
「儂、儂、お前を嫁にやりたくないよ〜!」
大声を上げて泣き出した。
……まあ、お茶目さん。

スーパーから帰る道の途中、話題は自然に彼女の父親の話になる。
『だから言ったじゃないか、子離れの出来ていない父親だと。』
―でもあれは誰だって驚くでしょう?
初老に手が届きそうなオジサンが膝から崩れ落ちるようにして号泣するシーンなんて、人生がいかに長くてもそうそう見られるシーンではない。
その後は、玄関前の騒ぎを聞きつけた彼女の母が自分の旦那をずるずる引きずって行った。まるで、またか、とでも言いたそうな顔をして。
『私のこととなるといつもこうなんだ。以前私が風邪を引いたときなんか、予定の大半を残して南米から飛んで帰った来た事があったんだぞ。』
―嘘ですよね?
『君に嘘をついたことは無いだろう?』
地球の裏側からの直行便は無い。一度アメリカでトランジットをする必要があるので、必然的に24時間近く移動にかかってしまう。
まさに親馬鹿としか言いようが無い。

5kgの米と1Lの醤油を持った左手がそろそろ疲れてきた。右手に持ち替えたいのだが……
―腕、離してもらえますか?荷物持ち替えたいのですが。
『嫌だ。』
さっきから右腕に絡みつくようにくっついている彼女が答える。
『暗い夜道だし、最近は痴漢も多いと聞く。一瞬でも君と離れるのは不安だ。』
―そんな大げさ過ぎますよ。
『……浩輔、君と私の仲だ。丁寧語や敬語は基本的に使わないでくれないか?』
―なんですか突然。
『私が不安なのはな、何も犯罪ばかりじゃない。君がいつか離れていくのではないかと不安で仕方が無い。』
―離れたくても離してくれないじゃないですか。
『茶化さないでくれ。……以前から考えていたのだが、君と私の間にはどこか壁があるようだった。だが、今日気が付いたんだ。』
―さっきの親父さんの言葉ですか。
『そうだ。私は君にまだ心を許されていないらしいと気付かされた。いくら体を重ねようが、まだ心は……』
俯いて表情は見えないし声のトーンも変わらないが、コートが強く握られる。

―そんなこと、無いですよ。
安心されるように、優しいトーンで話しかける。
―大体、心を開かないで体を重ねる事なんて僕には出来ません。そこまで器用じゃないの、知ってますよね?
『それは知ってる。知っているが……』
―じゃあいいじゃないですか。
『……だけど君は分かって無いな。』
我が家の前に着いて、腕を離れた彼女がこちらを向く。
『女という生き物は形式を大事にするものだぞ。……一応言っておくと、私も女だ。』
―分かったよ。……これでいいですか?
『まだ、分かっていないようだな……徐々に慣らしていけばいいか。』
鼻が触れ合うくらいに近づいて、甘い吐息を吐き出す。
『これから、ゆっくり、な。』
抗議の声をあげる暇もなく唇を塞がれた。口の中も犯される。
今日の夜は昨日より長くなりそうだ。そう思いながら僕は我が家へ入っていった。




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